お墓に歴史あり
外人墓地の北と南の記念碑を紹介しました。
今回はお墓をいくつか見て廻りましょう。
先ずはこれ、これはお墓?? ではなくて礼拝堂って言うの??
それにしても、さほど広くない墓地の敷地内で随分場所取っちゃってるけど大丈夫なんでしょうか?
元英国総領事の W.A.R.ウッド氏の墓所です。一緒にブーン夫人も居ます。
ゴルフクラブの古い写真で紹介した、国王陛下ご夫妻をお招きして写真中央に写っていたあの偉そうにしていた人です。あの写真も偉そうですが、このお墓も随分偉そうに見えます。普段中には入れませんが、故人の胸像が飾られているそうです。特に見ませんけど。
W.A.R. ウッド 元英国総領事
1878年 リバプール生 1970年 チェンマイにて死去 (91さい)
父親の仕事でヨーロッパ各地に住みフランス語ドイツ語を習得する。
18歳になるとすぐに、英国外務省「学生通訳者」(極東)を受験し合格。
この「学生通訳者」と言うのは、外交官を目指す特待学生の様なものでしょうか。
当時、植民地政策真っ盛りの頃、何処でも問題になるのは「言葉の壁」であろうと容易に想像がつきます。折角優秀な人材を現地に送っても言葉を覚えるまで役に立たないのでは仕事になりません。そこで、英国政府は、学生のうちに現地で生活させ、先に言葉を習得させようとする制度を作りました。これは、中々理にかなった制度と思います。
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同じくこの制度を利用して日本にやって来た有名な英国人が居ます。幕末維新の頃に通訳として活躍したアーネスト サトウ氏です。タイと違って当時の日本は、攘夷の嵐が吹き荒れる真っ只中。出向く先は毎回揉め事の通訳で、さぞや怖かったろうと思います。(恥をしのんで白状します。今までこの方、佐藤さんという日系の方と思っていましたが、「Satow」というスラブ系ドイツ人の珍しい苗字で倭人とは関係ないそうです。でも日本びいきのサトウさん自身も、日本人に親しみやすい名前で良かったと思っていたそうです。)
この「学生通訳者」のような制度、今でも通用する良い方法と思います。私たち日本人は6年も7年も英語の授業を受けますが、ほとんど誰も英語を話せません。聞き取れません。しかし親の仕事などで外国で生活すると、小学生でもしっかりと外国語を身に付けてバイリンガルとなって帰ってきます。ただし、これも若い人に限るようですね。60過ぎてからタイにやってきて言葉を覚えようなどは、所詮鼻から無理なんです。英語以外の外国語は、ラテン系かまあ精々キリル文字くらいまでなら何とか覚えようという気にもなります。
でもこれは無理。
文字の上にヒゲとか、ちっちゃい丸ポチとか、、、、 いや~、やっぱり無理です。
習得意欲とかセンスとか以前に、私の場合文字情報として目に入った瞬間、脳の手前でバリケードが出来るのです。皆さんは如何ですか?
この状態で3年経つと、体が自然と拒否反応を起こすようになってしまいました。
お陰で、会話は「こんにちは」と「ありがとう」の2つだけ。数字も十までしか言えません。日常生活でとても不便です。地元の人たちと意思疎通が出来ないので、つまらないです。それでも、 やっぱりタイ語、無理です。タイの皆さん、ごめんなさい。
ええ~っと、何の話でしたっけ。あ、そう 偉そうなウッド氏でした。
1896年 学生通訳士としてバンコクに着任し、タイ語を勉強。
1905年 初めて副領事として タイ北部に赴任。その後タイ語を含む得意の語学力を駆使し各地で活躍します。
1913年 チェンマイに赴任。領事、総領事と昇格し、1931年 退官。
その後もチェンマイに住み続けて、学生たちに英語を教えたり、また社会活動も意欲的で、我がチェンマイジムカーナクラブの委員長を何年か歴任されてます。テニスやスカッシュの名手だったそうですが、ゴルフは、、、?(記載なし)
ちなみに彼の奥さんは、彼が若い頃休日に象乗りに出かけた際に、チェンライの農家で見初めた美少女ブーンちゃん、当時14歳。「じぇじぇ、それはまずいべ~」
本人もそう思ったらしく、2年後に結婚。それでも奥様は16才です。
結婚後彼女は3年間、彼の故郷リバプールで、過ごします。姑や小姑に可愛がられた様で、しっかり英語も習得し、帰国後、ファーストレディーを立派に勤めたそうです。
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ここで、当時の世情をお話しておきたいと思います。植民地主義盛んな頃、様々な○○条約と言うのがありました。
1858年 日米修好通商条約締結。
天皇に許しを得てないとか、「いてき」と握手するとか、いちゃもんを付けられて紛糾し、その後、開国、維新へと国が大きく動いていくきっかけとなります。
タイでも1855年に、英タイ修好通商条約が締結されます。
これらは何れも一方的に片方が利益をうる「不平等条約」でした。そして、必ずその中には治外法権を認めさす「領事裁判権」というのが含まれていました。
本来の意味は、海外で事件が起きた際、地元民は地元の司法、外人は各領事官が外人国の法律で裁くと言うため物。ところが時と場合によって、この権利が拡大解釈されることがありました。
つまり当時の外国領事は裁判権も持つ非常な大きな権力者であったと言うことですね。首都の領事館には、独自の留置所や、有罪判決を受けた人のための(”人の為”という事は無いが)絞首台もあったそうです。
ウッドさんの写真の態度も、墓地の大きさもそういう事情からすると、ある意味当然なのかも知れませんね。
1913年、チェンマイに赴任後、彼が真っ先に取り組んだのは領事館の建設でした。ピン川沿いに本館、職員宿舎、象小屋(儀式用ではなく移動用に飼育)などを造りました。
ああ、やっぱり「旧英国領事館」の話が出てきちゃいましたか。
ホテルのウェッブの写真だけで、さらっと流そうと思ったのですが、
造った本人が出てきちゃったらしょうがないです。
この拙いブログを皆さん読んで頂いてるようなので、
ここは一つ、ドーンと大盤振る舞いで行ってみますか?
「大丈夫なの、幾ら掛かるか判らないよ。」
まあ、そこはほれ得意のネットぐりぐりやってみて
「なになに、レストランの料理飲み物単品で8百円位。まあそこそこの値段だね。でも、コースでズラズラやってたら、偉いことになるぞ。でもまさかサラダだけって言う訳にもいかないべな。」
「こっちの端っこに「キャンペーン」とか言うのがあるが、これはどうだ」
「どれどれ ”午後のひと時、選りすぐりのお茶で至福の時を” セット価格800バーツ(2600円)」
「これなら、値段も最初から判ってるし何とかなるべえ。おーし、決定」
「アナンタラホテルのアフタヌーンティー 決行だー」
そんな大騒ぎするほどの事ではないのですが
午前中予約を入れて、午後2時過ぎにやって来ました。
「本当に大丈夫なの?」
「もうここまで来たら逃げる訳にいかないべえ、予約も入れちゃったし。」
うわ~~、この限りない高級感。
やばいよ、やばいよ~
ひええ~~、無駄に長いこのエントランスはなんなんだー
フロントがかすんで見えないぞ
おおー終に出た~~、
ビクトリア朝、コロニアル風 木造2階建て建築物
ぎょぎょ~、なんだ、このポスターのような妙に整った感じは
客も無駄にまったり感、醸しだしちゃってるし
と言う訳で、レストランの入口に着きました。
まあ、普通です。
中はこんな感じで、これもいたって普通。でも床は、磨きこまれた当時のチーク材??
重厚感たっぷりなのは良いが、難点として歩き回るウェートレスの足音がコツコツコツコツ、やたらうるさいです。
「ハイ、お待たせしました。どーぞ、お楽しみくださいませ。」
「”J,J,J"/ これで? 全部? これは前菜で後からメインディッシュが来るとか?、、」
「いえ、お後はコーヒーか紅茶でございますが。本日スペシャルドリンクで、スパークリングワインをご用意させて頂いておりますが、如何でしょう?」
「ん~、そうね、じゃ、それ頂こうかしら?」
(うわーー、だめーー)(でたよ、貧乏人の見栄っ張り)
別に見え張ってる訳じゃないけど、会話の流れでつい、、、、
(後でほえ面かくなよ)(目玉飛び出るかもよ)
「下から順にお召し上がりください。ブリオッシュのスモークサーモン乗せ、グルメ・パイとキッシュ、スコーンのジャムとクロテッド・クリーム添え、さらにマサラ・クレーム・ビュリュレやマカロン、フルーツケーキ、ブラウニーでございます。」
「ああ~、もー、何言ってんだか全然判んないよ。まあ、確かに一品一品手が込んでて、不味くは無いんだが。ん~、何だかなー」
そしてこの得体の知れないピンク色した薄ら甘い飲み物。上に載った黄色い粒々が気になったので、通りすがりのウェートレスに聞いてみた。
「はい、それはキャビアでございます。」
次の男性のウェーターに聞いてみた。
「はい、キャビアでございます。」
次のウェートレスに聞いてみた。
「はい、キャビアでございます。」「あの、魚の卵の?」「はい、さようで」
「お前ら、馬鹿か。飲み物にキャビアなんぞ乗せたら、生臭くて飲めねーだろ、田舎者が」
言い知れぬ憤りを、無辜の民にぶつけてしまいました。
(彼等がなぜ一様にキャビアと主張してたのか。どなたかご存知の方いらっしゃたらお教えください。)
「まあ、たまには午後のひと時をのんびりと過ごすのも良いと思うよ。」
「あんたは20年前からずーっと、のんびりだろ」
「おーし、そこまで言うんなら、転んでも只では起きない団塊世代だ。館内を隅々まで見てやろうじゃねええか」
と言う訳で、開店前のバーを覗いてみました。誰も居ないけど、電気ついてるし良いよね。
磨きこまれたカウンターやグラス類。ただならぬ雰囲気を醸し出し、「一見さん」「とーしろう」を威圧しています。
そして、とうとう一番奥に見つけてしまいました。後ろの壁の大きなエンブレムには
「法廷、刑事上級裁判所」とあります。
紛れも無い、植民地時代に領事裁判権を行使した、領事館内の法廷です。調度品は皆新しいので、後からしつらえた物と思われますが、少なくとも、ここもしくはこの近くで法廷が開かれていたのは、間違いなさそうです。ウッド領事が例のハンマーを振り回して裁判を行っていたところです。
更に更に、お宝写真発見。
10cmほどの小さな写真で判り辛いですが、100年前の領事館の全景のようです。左手の二階家が現在のレストラン。右手の建物は、事務所とか宿舎?そして、中央にあの例の銅像が。資料の記述とおりにビクトリア女王像がゲート前に堂々と建っていました。
と言う訳で、ウッド氏の活躍した旧領事館を訪ねてみましたが、帰り際に、逆にホテルスタッフから新たなウッド氏の情報を得ました。住居だったところが現存し、レストランとして使われているとの事です。これは行ってみるべし。入らないけどね。確かに、言われてみればウッド氏の没年が1970年で奥様が1982年ですから、家が残っていても不思議ではないですね。
川沿いに南に4kほど下った所に在るこちらがそのお屋敷です。というか、これは住居の概念を通り越した「荘園」??兎に角すさまじい敷地面積です。奥の邸宅が現在「ル、コックドール」という高級おフランスレストランとなっています。室内に仲睦まじいお二人の写真がありました。
太平洋戦争末期の一時期にバンコクの収容所に収監された時期を除けば、彼の一生は幸せだったようです。没後、家族によって冒頭の写真の礼拝堂が建てられ、お二人が埋葬されました。
墓碑銘には、たった一言
「彼はこの地を愛した」 とあるそうです。
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「どーだ、ここまで掘り起こせば、”アフタヌーンティー”の元くらい取ったべえ。」
「ところで、支払いはいくらだったの?」
「税、サービス料込みで、1300バーツ。今のレートで4700円。」
「じぇ、じぇ、じぇ~~。普段の食生活の7食分じゃないか。まあこれが、東京なら なあんも感じねえ。でも、東南アジアの片田舎で、かつかつ年金生活してる者が午後にお茶してこの金額はだめだろ。しょうがねえ、明日から1週間、40バーツのタイそばか炒めご飯な」
「ひえ~~」
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