終戦の日

  今年も8月15日「終戦記念日」をむかえました。個人的に何かをするわけではなく、特別な何かに思いをいたす訳でもありません。学生の頃は、残り少ない夏休みを惜しみつつ、とは言っても慌てて宿題をやる気力も無く、ただダラダラとテレビなどを見て過ごす。特に興味が在る訳でもないのに高校野球などを見て時間を過ごし、夕方のニュースで天皇皇后両陛下の参列された全国戦没者追悼式の模様を知る。そんなだらけた日々をこの時期毎年同じ様に繰り返していました。

全国戦没者追悼式

全国戦没者追悼式
考えるに日本は敗戦国であり、それを記念するというのも可笑しな話で、正しくは「終戦の日」、閣議決定された正式名称は「戦没者を追悼し平和を祈念する日」だそうです。ではこの日に一体何があったのか。政府機関が何かを発布したとかでは無く、ましてや進駐軍のGHQ絡みでもありません。ご存知の通り「天皇陛下が全国にラジオ放送をした日」、日本人の天皇に対する精神性の強さ深さの表れでしょう。当時は今とは比べるべくも無い、計り知れない物があったはずです。

タイでの戦没者追悼式

タイ戦没者追悼式
こちらでも在留邦人有志により、日本と時を合わせて追悼式典が毎年行われています。

ワットムーンサーン

ワットムーンサーン
  場所は市内のワットムーンサーンというお寺で、近くなのでこのブログの事もあり今年は「満を持して」(そんなに偉ぶることでも無いですが)参列することにしました。

ワットムーンサーン02
ワットムーンサーン03
このお寺の近くには、銀細工の工房が沢山あり、お寺もご覧の様にすさまじいばかりの銀の装飾が施されています。

ワットムーンサーン04

私の好きなガネーシャ様も見事な銀のレリーフで。いぶし銀の雰囲気がなかなか良い感じだと思います。

ワットムーンサーン07
さてこのお寺も以前にご紹介した何箇所かと同様、70年前に日本軍傷病兵の収容所とされていた所で、多くの将兵が故国へ帰らずこの場所でなくなったそうです。正式な調査も行われないまま、今となっては当時を知る人も少なくなり、その実態は不明のままですが、地元の人はまだ多くの日本兵が葬られることも無く望郷の念を抱きつつその魂が彷徨っている考えているそうです。そのため、毎年行われるこの追悼式もこのお寺の正式な法要とされ、僧侶や檀家衆が全面的に支えてくれているそうです。
 流行のアイドルや外タレがコンサートを行う、有名な所で行われる政府主催の追悼式も立派ですが、異国の片隅でひっそりと行われる式も場所が場所だけに感慨深いものがあります。戦争に出て戦で命を落とすならまだしも、飢えや病に冒され満足な治療を受けられないまま帰国も叶わず亡くなる事の無念さが偲ばれます。しかし、日本人以上に仏教心の強いタイの人たちに見守られていることは、後の者としていささかなりと心が救われます。

戦没者追悼式
さて式典は、日本の武道館の模様が衛星中継で会場内のモニターに映され、陛下のおことばや、総理の挨拶などがリアルタイムで流されます。時差を調整して、午前十時に黙祷を捧げました。
 陛下のお言葉を、恐れ多くもごくごく掻い摘んで引用します。
「---過去を顧み、さきの大戦に対する深い反省と共に、---、戦争が再び繰り返されぬことを切に願い、---- 戦禍に倒れた人々に対し、心からなる追悼の意を表し、----。」
 国民全体は果たして「深い反省」をいたしているでしょうか?私個人としては、「深い反省」をしていなかったことを今にして深く反省しております。「自虐史観」と言われようと何と言われようと、まだまだ過去の物として風化させてはならないと思います。

政府の戦後処理

1951年 サンフランシスコ条約により、日本は非占領状態をとかれます。
1952年 条約に元づき 戦犯の赦免や減刑に関する国会決議が採決されます。
1975年 第3次遺骨収集事業 ほぼ終了とする(政府見解)

辛い過去の「負の遺産」を早く忘れたいと言う気持ちは誰しも抱くもの。しかし、見たくない物に覆いを被せるこの政府の対応は余りにも早過ぎはしないだろうか。

それぞれの国の置かれた立場が違い、単純に比較するのは無理があるでしょう。しかし、それを承知で敢えて他国を見てみる。
同じ敗戦国のドイツでは、未だにナチスの戦争裁判が行われています。最近の事例で、オランダ人の証言が必要となりましたが、すでに高齢となり病院で寝たきりの状態。それでも裁判所は本人と病院の許可を得て、病室にテレビカメラを持ち込んで、裁判を行ったそうです。国を揺るがす大きな事件には、このくらい執拗に取り組むべきではないでしょうか。
戦争大国のアメリカは、第二次大戦以降も何度も戦争をしています。朝鮮半島で、ベトナム、イラク、アフガンで。戦場に赴く兵たちに、「戦死しても必ず故郷へつれて帰るから」と約束して送り出します。そのため、100人規模の遺骨収集専門部署があり、先の大戦まで遡って徹底した調査が行われます。激戦地で有名な硫黄島。米軍の収集は最近ほぼ完了したそうですが、調査途中で明らかに米兵ではない日本兵と思われる遺骨が発見され、日本の厚生省が慌てて調査団を派遣したそうです。扱いが随分と違い、驚かされます。

戦没者追悼式02
さて祈念式典は、黙祷の後それぞれ献花がおこなわれますが、列の中央辺りに妙な帽子をかぶった方が写ってます。更に手元を見るとなんと軍刀を携えている??
 70年前のことを、根掘り葉掘り嗅ぎ回っているので、ついに日本兵の亡霊が出たか?

コボリ
それにしては、身なりがこざっぱりしているし、いささか栄養が行き過ぎの感も。

 「こういう馬鹿なことするから、日本はいつまで経っても三流国の謗りを免れないのだ」と例のごとくひとしきり毒を振りまいてしばらくのち、彼の周り窺うとどうも様子が違う。聞いてみると、失礼いたしました。
 この方は、日本軍を好きなタイ人で、所謂「コスプレ?」をなさってるようだ。これ以外にも海軍の軍服もお持ちだそうです。しかし色々揃えても、年に一度だけのコスプレとはなんともわりの合わない趣味だと思いましたが、彼はそんな柔なファンではありません。週になんどかこの格好で、観光客の集まる市場やデパートなどに出没するそうです。それにしても随分えらい物を好きになってしまったものだと思いましたが、どうやら彼は日本軍のファンというよりも映画に影響されたようです。

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 さてタイで最も有名な日本人の名前は何だと思いますか?本田や豊田ではなくタレントの名前でもありません。それは「コボリ」さんです。タイで名前を聞かれたら冗談半分に「クーカムのコボリです」と答えたら、おそらく相手からにっこりと微笑み返してくれるでしょう。

メナムの残照 クーカム(運命の人)

  これは、1965年にタイ女性作家トムヤンティ氏が書いた「クーカム(運命の人)」邦題「メナムの残照」という大河小説の登場人物の名前です。1941年にタイに進駐してきた日本軍の大尉「小堀」(と言う漢字でしょうか)。式典に現れたコスプレおじさんも「コボリ」さんと呼ばれていました。

  この物語はタイでとても人気を博し、なんと過去7回のTVドラマ化、5本の映画が作られ(最近では2013年)ました。極めつけは1990年に放映されたTVドラマで、ドラマの時間になると悪名高きバンコクの渋滞交差点がすかすかになったそうです。日本でも1952年にラジオドラマが放送された「君の名は」。大人気を博し放送時間は銭湯の女湯ががらがらに成ったと言われています。当時幼稚園児だった小生は、おふくろさんにぶら下ってもっぱら女湯を使わせて頂きましたが、がらがらに成ったような記憶はありません。(と言うか、幼稚園児がそんな事記憶してたら気持ち悪いだろう)。更に映画化され、岸恵子さんが長いショールを頭にかぶり、余った端を首に巻いて後ろに回す「まちこ巻き」が大流行。町行く女性が皆「まちこ巻き」をしていました。

クーカム

 こんなタイで大人気の「クーカム」、折角なのでざっと内容をご紹介しましょう。
女子大生の「アンスマリン」、恋仲の同級生が英国へ留学となり遠距離恋愛。そんなところへ進駐してきた日本軍の小堀大尉。アンスマリンに一目ぼれ。アンは日本兵を徹底して嫌いますが、タイと日本との政治的な駆け引きのなか小堀と政略結婚させられます。戦争末期留学していた彼氏がなんと「自由タイ」(抗日レジスタンス組織)の一員として帰国します。悶着起きない訳が有りません。エンディングは空爆によって小堀さん負傷。息を引取る間際にアンは「貴方を愛していた」と告げます。(すみません。下手糞な解説で、書いてる本人も何処が盛り上がる面白い所か判りません。)

ちなみに、映画版を一本見ました。小堀大尉がまるで見初めた女性に付きまとうストーカーのように見えてしまいました。アンも我が強く一体どっちが好きなんだとみていてじれったくなります。日本人として見ていると、日本人の扱いが「チントンシャン」なところが沢山あります。

   しかし、 何れにせよ、この物語がタイの人々の親日感情を大きく盛り立てたのは間違いないようです。

機会があったらご覧あれ。

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