タイ南部観光
バンコク
「街歩き」が気持ちいい季節になりました。相変わらず、南国の日差しは肌を焼きますが、風が爽やかです。
その温度差が、事の外心地よい。
そんなそよ風に誘われて、ぶらりやって来ましたバンコク。
過去何度か立ち寄りましたが何れも帰国途中であったため、じっくり見物するのは今回が初めて。
タイ王国の首都、人口800万人。さすがに大都会ですね。
久しぶりの環境で行きかう人の多さに気圧され、田舎から出てきたこと丸出しにしてうろたえる自分に失笑してしまいます。
まずは取り敢えず、定番の博物館見物と参りましょう。
バンコク国立博物館
実は、下調べで「日本語のガイドツアー」があると知り、旅程をやりくりし参加することにしました。ツアーの出発が9時半とのことで、朝5時過ぎに家を出て飛行機に飛び乗り、タクシーを飛ばして何とか間に合いました。おそらく、日系企業の駐在さんの奥さん方だと思いますが、ボランティアでガイドをしてくれます。
この博物館は、歴史と仏教美術の展示と言うことで、上野の国立博物館と同じスタイルですね。個人的にどうも「仏教美術」とやらは、余り得意ではありませんが、嫌に成ったら途中でトンズラしよう、と決めこんで取り合えず付いて行きます。
実際に聞いてみると、そんな心配は杞憂で、とても興味深く見学が出来ました。
海外の博物館を一人で見学すると、展示物を見るよりも、どうしても解説を必死になって読もうとします。しかし読解力の不足から、どれも実に中途半端な理解度のまま観覧を続けざるを得ません。
展示物を目で見ながら、同時に理解できる解説を耳から聞くと言うのはとても効果的だとあらためて分りました。更に機械のガイドシステムではなく、生身のガイドさんだとその都度質問が出来、これがまた実に具合がよろしい。
苦手にしていた仏像にも新たな興味が沸いてきました。
ということでいくつか、この館のご自慢をご紹介しましょう。
タイのヴィーナス
7世紀頃のシュリビージャヤという王朝時代の観音様の銅像。この王朝はマレー系で交易で栄えた国だそうで、この像も何となく西洋系の感じが漂います。
それにしても、タイの仏像はストイックで禁欲的な仏像が多い日本と違い、たおやかな感じがして、親しみが持たれます。
この仏像は、好事家の間では「タイのヴィーナス」と言われているそうです。確かに、女性の肉体美を現しているようで形が「ミロのヴィーナス」に似てなくも無いですが、お顔がいかにも男顔。「ヴィーナス」というのは、、ん~~、どうでしょう?
まあお好きな方々が、「ヴィーナス」だと言っているので、周りでゴチャゴチャ言う事もないとは思いますが。と言うことで次にまいります。
ラムカムヘーン王碑文
これもタイでは有名な遺物で ラムカムヘーン王碑文 と言います。13世紀のスコータイ朝の碑石で、4面にタイ文字で当時の領土の広さや、王様の偉業、町の様子などが記されているそうです。ラムカムヘーン王、聞いたことある名前だけど誰? ここで、博物館観覧一旦休憩。
3人の王様
こちら、チェンマイ市中央部にある有名な「3人の王様像」。その像の周りでなにやら、お祝い事があったようです。この辺は他に特に見るべき物はありませんが、像の周りが広場になっており、ツアーグループの集合、待ち合わせなどに格好の場所と成っています。
昔、仲良し王様の3人組が一同に会した故事に習って像が建てられました。向かって左が「パヤオ王国のガンムアン王」、中央がチェンマイのある「ランナー朝のマンラーイ王」、そして右が「スコータイ朝のラムカムヘーン王」です。
マンラーイ王 「実は、今いるチェンライがちょいと手狭になってきたので、引っ越そうと思ってるんだけど、悪いけどちょっと手貸してくれないかな」
ガンムアン王「いいよ、で?何処へ移るの?」
ラムカムヘーン王「チェンマイあたりはどうよ?広々してるし、いいんじゃね」
と言う訳で、3人は攻守同盟を結んだそうです。
こうなると、少しばかり歴史をさかのぼる必要がありそうです。ご面倒でもしばらくお付き合いください。
これは、当時の13世紀スコータイ朝時代の周辺版図
中央の南北に長いオレンジ色がスコータイ朝。
北に接する紫色がランナー朝
間のちっちゃい灰色がパヤオ王国です。
因みに、西側のピンク色がビルマ。北の青色が北部ベトナム、黄色が中南部ベトナム、そして中央の大きな赤色がカンボディアの有名なアンコール朝です。この当時のクメール族アンコール朝は、大いに隆盛を誇りタイの地も支配していましたが、ラムカムヘーン王がこれを少しずつ東へ押しやりこの版図になりました。
現在のタイ王国の歴史はこの「スコータイ王朝」からとされています。勿論それ以前にも「タイ族の王朝」はありましたが何れも弱小で領土も小さく、他国の属国扱いだったため、現在のタイ王国領土から見た歴史は、スコータイ、アユタヤ、そして現在のバンコクの王朝と言う流れで語られます。
領土を拡大したスコータイ朝もその後衰退し、遷都もあって元の都は廃墟と化し、最後はジャングルに埋もれてしまいます。
1833年、「ラムカムヘーン王碑文」などの遺物を発掘しこの埋もれた遺跡を調査して、スコータイ朝の実態を明らかにしたのが、何度か話に出てきた「モンクット王子」。そうですあのお方、「王様と私」のユルブリンナーですね。
当時のモンクット王子は「ラーマⅣ」として即位する前で、出家しており仏門で仏教のみならず様々な学問を修め、その中で王朝の歴史を整備しました。
ミュージカルで王様を演じたユルブリンナーが役になりきるため頭をそり僧籍の王様を演じて、それが当たり役となり、彼はその後一生涯ツルツル頭で通したと言うわけです。
途中彼は黒澤明の「七人の侍」に感銘を受け、西部劇版の「荒野の七人」という映画を製作し、自身も出演しています。最初、突然ツルツル頭のガンマンがスクリーンに登場したのでびっくりしましたが、黒ずくめの服装で立ち居振る舞いが中々格好良く小生の好きな映画の一つでもあります。
「禿げ」話しで一人盛り上がってしまいましたが、歴史はこれだけでは終わりません。
この重要な歴史碑石に捏造疑惑が湧き起こりました。日本でも「STAP細胞」とか、「なんちゃら遺跡の欠けた茶碗」とか、捏造疑惑でひとしきりお茶の間を賑わしましたが、この碑石がもし偽物だとすると現王朝の歴史がひっくり返る可能性もある程の大問題です。
1980年台に、ピリヤ クライルークというタイ人の美術史研究者が自身の論文の中で、碑文に記されたタイ文字の構成システムが当時の物と懸離れている点を指摘します。この論文を巡り、内外の研究者が激しく議論し、更には王室まで巻き込んだ一大論争に発展します。
その後は、偽作否定論が圧倒的な数で疑惑論を押さえ込み議論は鎮静化したそうですが、今になって色々調べてみても決定的な結論が見当たりません。
そうこうしている内に、2003年 ユネスコはこの碑文を「世界記憶遺産」に登録します。ユネスコはそれなりに色々調べた結果の判断だとは思いますが。
はたして「その真相や如何に」中々、興味は尽きませんが、おっと、ガイドツアーの途中でした。
次へいきます。
スコータイ時代の仏像
こちらも同じスコータイ時代の仏像で、この遺跡に特徴的な「遊行仏」と言うスタイル。お釈迦様が遊説に出かける時の歩くお姿を現したということです。
薄絹の衣の裾を、風にそよがせながら歩くお姿は、なんとも見る物を和ませてくれるようではありませんか。
どうでしょう。このまんま、「パリコレ、春の新作発表会」などにご登場頂いたら、万雷の喝采を受けるのではないでしょうか。
でも、ちょっと露出度が問題あるかもしれませんが。
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興味津々、博物を観覧していて、あっという間に規定の2時間が過ぎてしまいました。
グループでシャカシャカと幾分早足でまわり、ガイドさんも早口目の話し方でたっぷり2時間。それでも、ほんの上っ面を浚っただけで、まだまだ見たい所が沢山ありますが、次の予定があるので後ろ髪を引かれつつ、博物館を辞去します。
次回のお楽しみにとって置きましょう。ボランティアの皆さん有難うございました。
戦勝記念塔
と言う訳で、次にやってきたのがこちら 戦勝記念塔
バンコク市の中心部に位置し、高い塔の周りには何車線もあるロータリーとなりひっきりなしに多くの車が通り過ぎていきます。また、地方を行き来するバスの発着所でもあり、さらにBTSという市民の足の高架鉄道の駅も近くにあるため、外周にあるアーケードは、多くの街人が行き来していて、例のごとくちょっとしたスペースに屋台が並んでいたりで、とてもにぎやかな所です。
しかし、こうして記念塔を遠巻きにしているだけでは仕様が無い。記念碑を見に行きたいのですが、果てさてどうやってアプローチしたものか。何か特別な歩道とか地下道の様な物があるのかと一周してみましたが、そんなものは見当たりません。途中、観光警察(ツーリストポリス)の所謂交番を発見して、これ幸い。
おじさんに聞いてみると、目の前を指し示して、「ここを行け」という。
「いや、いや、いや、いくら何でもここは無理でしょ」
「大丈夫だ。こうして右手を上げて渡れば行けるから」と身振り手振りで教えてくれました。
半信半疑のまま、しばらく様子を窺っていると、確かにロータリーの何箇所かに信号があり、一瞬車の流れが止まる時があります。交番の前なら車に轢かれても何とかしてくれるだろう、と意を決して、左手でかばんを抱え右手を高々と上げて、必死の覚悟で駆け抜けました。
息を切らして何とか渡河成功。
しかし、渡っては見たものの、、、何もないです。
塔の周りに兵隊さんの像。鉄砲を構えたり、砲弾を抱えていたり。
その下には戦没者の名前とおぼしきタイ語が書かれている。ただそれだけ、解説も何もない。
普通こういう所には必ず地元の人たちが、花輪をかけたり、供物を供えたりします。仏教とはおよそ懸離れたような物でも、考え方次第で信仰の対称になるのがここのお国柄。 しかしここには何もなくさっぱりとしたもの。
これには、何か曰くがありそうですね。
そもそも、こんな観光スポットとして不人気なところに何故わざわざやってきたのか。
実は、この記念塔には日本が大いに関係していたのです。
ここでまた、面倒ですが歴史のおさらいを。
近代のタイ領土
地図の青い線が現在のタイ王国の領土。赤い線は19世紀の領土。この赤い部分は一つの単一国家と言うわけではなく、カンボディア・ラオスなど、別の王朝がタイ王朝の属国であったと言うことです。
その後、ヨーロッパ列強の植民地化侵略によって、領土が奪われていきます。
西からインド・ビルマを併合したイギリスが。南からマレーを取った同じくイギリスが。そして、東からベトナムを取り、更にカンボディア・ラオスを併合したフランスが侵攻して来ました。
イギリスはすでにタイ国内でゴム・錫・材木などその利権を大いに独占してきました。国の運営は面倒なので「領土占有はしないが”美味しい汁”は吸わせてね」、と言うのがイギリスの植民地政策。その代り、要求に文句言おうものならビルマのように武力で一気に占領してしまいます。
一方のフランスはというと、こちらはもう有無も言わさぬ力技。カンボディア・ラオスを取り、その先当然タイ全土の掌握を目論んでいたようです。
こうなるとイギリスもノンビリしていられません。当時、アフリカ大陸で英仏は国境紛争を抱えており、イギリスは更なるフランスとの紛争は避けたいところ。そこで、イギリスがフランスに持ちかけたのが「タイ王国中央部の緩衝地帯化」。
お互いに決められた部分は手を出さないようにしましようと言う条約です。裏を返せば決められたところ以外は双方都合の良い様に分け合おうねと言う、タイ国本人を無視した、英仏という大国のなんとも図々しい条約ではあります。
タイ人にとって、この赤から青への国土を削られた「喪失感」は半端無く、歴史の教科書でも「屈辱の歴史」として語られているそうです。
2度の大戦があった地球規模の動乱期に、アジアの一国が奇跡的に独立を通せたのは、この「緩衝地帯化」の条約があったからに他ならないのですが、そのためにタイは国土の半分を失ったと言うことですね。
さて時は移り、1939年ヨーロッパでは、全域を巻き込む第二次世界大戦が勃発します。翌年、ドイツはフランスに侵攻し全土を攻略、親独のビシー政権が誕生。
一方アジアでは、泥沼化する対中国戦を打開すべく、中国への物資援助ルートを止める為に、日本軍は仏領北部ベトナムへ進攻します。
この期に乗じて、時のタイ国首相のビブーンは、フランスに領土の返還を求めます。
しかし、ドイツに敗れたとは言え、「腐っても鯛」(失礼)、嘗ての大国フランスが、アジアの小国タイの要求を素直に受け入れる筈はありません。
交渉決裂して、とうとうタイとフランスは戦闘状態に入ります。総じて見るに、空海ではフランス優勢、陸ではタイがやや優勢。
ここで、日本が仲介をして停戦が実現します。 タイはフランスから、失った失地の一部を返してもらいます。それが地図の黄色の部分です。
失った面積からすると随分小さいですが、それでも自ら血を流して獲得した失地回復ということで、ビブーンは大いに内外にこの事を誇示し、その土地の県名に自分の名「ビブーンソンクラム」をつけます。そして更に、1941年「戦勝記念塔」を建てたというわけですね。
記念すべき対象事象を考えると、塔自体が異様に大きすぎる感じがしたのは、当時の政権の宣伝色が多分に働いていたと言うことでしょう。
結論 : 戦勝記念塔が不人気な理由は?
1、アクセスに危険が伴う
2、意味が良く分らない
3、意味を知っているので賛同できない(全体主義につながる)
などでしょうか?
多くの観光客は 2、でしょう。タイ人でも案外知らない人が居るかも知れません。
年配の方や、歴史に興味のある方は 3、と言う意見も出てくると思います。
私的には断然 1、ですが。
なんとなく、いい加減に締め括ったところで、おっと、バスの出発時間です。
次に移動します。
マレー半島南下
さて次の目的地は「プラチュワップキーリーカン」と言う、唇と舌先を2,3回噛まないと発音できないような地名ですが。
同じ県内に「ホアヒン」という所があります。こちらは王室の保養地があったり、外人が長期滞在していたりで、よく知られたメジャーな場所がありますが、今回の目的地は更に南の県庁所在地の方。
よく調べずにバンコクからリムジンバスに乗ったのですが、観光客用のバスのため「ホアヒン」止まり。そこからはタクシーでと思っていたらなんと更に100Kmもあるという。仕方なく時間的に不安ですが鉄道を利用することにしました。時間が不安とか言いますが、特に時間を気にするような目的も無いのでそこは鷹揚に対応を。
案の定1時間遅れでやっと来ました、3両編成のディーゼル特急列車。
初めての経験で、様子が分らないので取り敢えず一番高いチケットを買いました。
お昼時だったので、有難い事にランチ付き、と喜んだのも束の間。
奥のご飯と水は分りますが、手前左は「何やら得体の知れないイワシの水煮?」右は「何やら得体の知れないイワシの煮付けカレー風味?」
隣の叔母さんに意味の無い笑顔をおくったり、小首を傾げたりしながら恐る恐る箸を付けてみました。
結果的には空腹の余り、全部頂きましたが、
やっぱり料理は見た目も大事と思います。
ゴチャゴチャやっているうちにはや一時間で目的地に到着。
――――次回に続く
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