外人墓地 その3

お墓に歴史あり

マッギルバリー夫妻
ダニエル マッギルバリー、ソフィア 夫妻 

マッギルバリー夫妻02
    そもそも、隣のチェンマイジムカーナクラブの創設時のお話から始めたのですが、この方はクラブとは直接関係はありません。しかし、彼の業績が100年後の現在、ご当地の人々の一般生活に大きく関っている以上、「Who`s Who @ 墓地」で彼を外す訳には行きません。紹介した古い写真の中で、ステープ山のピクニックの写真がありましたが、その中に彼の娘さん達が写っていました。

ダニエル マッギルバリー 宣教師    アメリカ

1828年 生まれ   1911年 死去 (83さい)

ダニエル マッギルバリー


1858 プロテスタント系 長老派 宣教師として タイに赴任する。

宗教宗派に関してはこれ以上掘りません。日本人のくせにお釈迦様の一生も知らず、キリスト教と言えばクリスマスに意味も無く浮かれたりする程度の不信心者。これ以上掘ると、自身の墓穴に成りますので、ここから先は皆さんご自身でどうぞ。



布教
1867 家族ともども、チェンマイへ移動し、北部タイにて布教に努める。
真ん中辺りで、象の足元に立っているのがマギルバリー牧師と思われます。小さくて良く判りませんが、白いあごひげをこんなに伸ばしている人は、今も昔も珍しいと思います。
 これから、奥地へ布教活動へ出かけるところでしょうか。

チェンマイクリスチャンスクール

クリスチャンスクール
1868 チェンマイで最初の教会を立てました。この建物は戦後の物で、当初は掘立小屋の様なもっと貧しい物だったのでしょう。現在は小学校となり、子供たちの教会として使われています。

  その後、彼が主導したアメリカ長老派宣教活動 American Presbyterian Mission(APM)で、本国から多くの宣教師や医師たちが派遣され、当地の教育や医療などで多大な貢献をすることになります。

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「医療」

マコーミック病院

マコーミック病院
1872年 APM派遣医師たちのボランティアでの診療活動が始まり、小さな診療所が開設されます。それはその後、総合医療施設「マコーミック病院」へと発展していきます。

  現在、市内にはいくつかの総合病院があり、それぞれ特徴があって利用客?もお気に入りが皆さんまちまちの様です。普通の所、ちょっと汚いけれどお安い所、小奇麗で高い所、最近バンコクから進出してきたとてもお高い所などなど。最近では病院も客商売?で、超高級「バンコク病院」も早速市内の旅行代理店を廻って営業活動をしているそうです。(病院がばかにはやったり、営業活動を一生懸命というのも、なんだか嫌ですね。)

マコーミック病院02
さて今日は、年に一度の健康診断で「マコーミック病院」へやって来ました。私的にはこの病院、料金設定もそれなりだし何よりミッション系のためスタッフのほとんどが英語が通じるところが有難いです。
  この病院は、タイの「医療の父」と言われるラーマⅨ(現国王陛下)の父君(名前は長いので省略します。すいません。)が、研修医の頃勤めていたことでも有名です。
  太平洋戦争中は日本軍に接収され軍病院となりました。
  ちなみに、このマコーミック病院の名前は、建設当時の資金を寄付したアメリカの資産家の名前だそうです

J.W.マキーン医師 

J.W.マキーン医師
この方もAPMで派遣されてきました。
 1889 J.W.マキーン医師 

チェンマイに派遣され、医療活動に当たります。

1908 政府機関の協力を得てハンセン病療養所を開設します。




マキーンリハビリセンター

マキーンリハビリセンター
現在は「マキーンリハビリセンター」となり、老人介護医療などもやっているそうです。ひと回りして来ましたが、広々としてとても綺麗な療養所でした。

  皆さんも老後の保養先として、選択肢の一つとして検討されては如何ですか?格安で高度介護医療が受けられます(と思います)。

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「教育」

プリンスロイヤル学校

プリンスロイヤル学校
    1887 APMの活動で、北部タイ初の小学校を設立しました。
その事業を引き継いだW.ハリスは、私財を投じて、学校を拡張します。
  彼の奥さんは、マッギルバリー牧師の娘さんで、夫婦でピクニックの写真に写っていました。

  1906 ワチラーウィット王子(後のラーマⅥ)が援助。校名をプリンスロイヤル学校とする。
幼稚園から小中高とある、とても大きな学校です。

神学校

神学校
  1883年にマッギルバリー牧師が開いた神学校

現在はとても立派な建物となり、中には礼拝室の様な所もありました。

宗教画
壁に掲げられた「聖母子像」と「失楽園」の絵
ともにタイ風に描かれているのは、「土地の人々に受け容れ易く」という配慮でしょうか。

ステンドグラス
単に扉を装飾しただけのような規模の小さいステンドグラスでも、身を委ねると心が洗われる思いがします。こんなレベルの低い物でも(失礼)効果的ということは、相対比較して考えるとよほど心の汚れ具合がひどいということでしょうか?
反論の余地もありませんが。

マコーミック病院看護学校

マコーミック病院看護学校
1923年に創設されたマコーミック病院看護学校。
病院の道路の真向かいにあり、しきりに若い看護学生さん達が行き来していました。

パヤップ大学

パヤップ大学
この、神学校と看護学校が合併してパヤップ大学となります。現在は神学校と看護学校以外は郊外のキャンパスに移り、総合大学となりました

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このように、地域社会の近代化に大きく貢献したAPMですが、当初から順風満帆だったわけではなく、苦難の時代もあったようです。

カビロロット王子

カビロロット王子

  マッギルバリー牧師はバンコク時代に、何度かモンクット王(ラーマⅣ、「王様と私」のユルブリンナー)に拝謁しましたが、その時、チェンマイから来ていたカビロロット王子と知己をえます。
  当時のバンコクとチェンマイの関係は、江戸時代の中央幕府と地方大名のような関係で、「参勤交代」のような制度があり、チェンマイ王室の一員であるカビロロット王子が首都バンコクに3年間の生活を余儀なくされていた時期でした。

 王子はマッギルバリー牧師の医療知識(天然痘の種痘技術)などに興味を示し、1866年に北部タイでの布教活動を認めます。しかし王子はもともと頑迷なまでの仏教徒であったそうで、その後心変わりしキリスト教布教を危険視し始めます。
  ついに1869年、2人の改宗したタイ人をバンコクへのスパイ容疑で取り調べの後処刑してしまいます。その理由は以下のごとく、

  • 2人がキリストの教えに従い「安息日」に作業を拒否した
  • 政府が要求したチーク材の供出ノルマを拒んだ
  • マッギルバリー牧師が施した種痘で王子の孫が死亡した

など、未だにその真相は判らないようです。

 ちょうどその頃、日本でも長崎で大規模なキリスト教徒(カトリック信徒)への弾圧事件がありました。
 その後、王子は病気で亡くなり、穏健な王が即位してAPMは進展していきます。
何れにせよ、異国での布教活動は何処も苦難の道だったようです。

  今風のタイの若者で、携帯を片時も手放さないような若者が、車の移動中でもお寺の前でしっかり手を合わせて通り過ぎる、そんな土地柄のタイで異教を広める苦労は押して知るべしであろう。

八重の桜
NHK大河ドラマ「八重の桜」で、新島襄さんが京都に同志社を建てました。
  こちらも仏教の総本山のようなところで、耶蘇を広めようとした。
  ドラマの中でも、理解を求めるべく出向いたお寺で、寺の坊主に叩き出されて道に転げるシーンがありました。

  今では、10歩歩けば次のお寺があるほどにお寺が一杯ある仏教都市に、何の違和感も無く教会やムスリムのモスクがある。しかし、こうなるまでには100年近くの時の流れが必要だったのでしょう。

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    最近はめっきり見かけなくなりましたが、以前渋谷のハチ公前とか、新宿東口などで信号待ちしていると、長身の紅毛碧眼が近づいてきて
「あなたは神を信じますか?」
といきなり話しかけられる。
  かけられた方は、ただただ薄笑いを浮かべサザエのように身を「ぎゅっと」して、蓋を閉じようとするしかすべがありません。

  朝、時間ぎりぎりの通学途上や出勤前に、街角で待ち伏せされ、褐色のおじさん(ウィッキーさん)が突然飛び出してきて
「グッドモーニン」
とか言われても、やっぱりサザエに成るしかありません。
  私は今でもそうなってしまうと思います。

 これは、宗教心や英会話能力の問題ではなく、想定外の状況での対応能力。
  そもそも異人に話しかけられるなどと言う事は、日常生活では想定外な訳ですから。突然降りかかった異常事態に、対処策も思い浮かばずただうろたえてしまうのは、無理からぬことだと思いますが。

皆さんは如何ですか?

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