外人墓地 その4

お墓に歴史あり

デビッド F.マクフィ

お墓を巡る旅、次はこの方、デビッド F.マクフィさんです。
ジムカーナクラブの創設者の一人です。

マクフィ
 1870年 生まれ   1945年 死去  (75才)

    1893年、英ボルネオ社(材木問屋)の森林監督官ルイス レオノーエンス(王様と私の家庭教師の息子)と共に、その助手としてチェンマイにやって来ました。

ルイスの後釜としてボルネオ社の森林監督官となります。

白象勲章

  1927年 時の王様ラーマⅦがチェンマイ駅開所式典に参列の際に、会社の獣舎でたまたま生まれた「白い象」を王様に差上げます。

そして、その名の通りの「白象勲章」を頂きました。

この勲章はラーマⅣ(ユルブリンナー)の時に制定されたもので、外人がもらえる最高位の勲章だそうです。
日本人でも大平正芳さんら、政治家や大学の先生が叙勲しています。




マクフィー氏、地元の女性カンマオさんと結婚し、1男3女を儲けます。大変教育熱心だったようで、子供たちを幼い内からヨーロッパなどへ留学に出します。


1941年 日本軍の進駐に伴いバンコクの収容所へ収監されます。ここは、タイの管理だったのでさほど厳しくは無かったようですが、70歳の高齢にはさすがにきつかった様で、1945年に開放されチェンマイに戻ってから4ヶ月後に亡くなります。

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お墓の向かって右側が奥さんの カンマオさん。
  1882 生  1968 死去 86さい

  彼女に関する記録によると「チェンマイのお姫様がチュラロンコン王の宮廷に行く時侍女としてバンコクへ行った」とあります。

ダラ ラッサミ姫

ダラ ラッサミ姫

この話に該当する王女様はダラ ラッサミ姫でしょう。第7代チェンマイ王の娘で、カビロロット王子(キリスト教弾圧)の孫娘にあたります。

  この頃タイは、イギリスとフランスと言うヨーロッパの大国の間に挟まって、まるで白刃の上を渡るような非常に危うい状況にありました。イギリスはビルマを征服しつつ北上し、ついでにチェンマイも狙っていました。
  例の「ビクトリア女王」がチェンマイの王女を養女にするのでは、というような噂も流れるほどでした。慌てたチュラロンコン大王(バンコク)は、早いとこ先に唾付けておいた方が良いだろうという事で、弟をチェンマイに遣わし婚姻の話をまとめさせます。
そして、1886年にバンコクの宮殿にお輿入れしたのが、ダララッサミ姫です。
彼女は、いわば政略結婚の犠牲になった悲劇のヒロインと言うところでしょうか。日本でも戦国時代あたりから当たり前のように行われていたようですが。
  タイ版「皇女和宮」か、「天璋院篤姫」といったところでしょうか。


ダララッサミ姫一行
姫様は、チェンマイ王族関係者や侍女達を伴いバンコクへの「お国入り」をします。といっても、チュラロンコン大王の側室116人の内の一人に過ぎませんが。

  因みに大王は、側室含め総勢116名、子供は77人(お世継ぎに関しては全く問題なしですね)。
  日本でも大奥3000人でした。最高記録は徳川家斉 公で、側室40名、子供55名だそうですが、ん~残念、チュラロンコン王の勝ちです。
  続きまして、中国後宮3000人。清朝盛期の乾隆帝が側室70名、こども55名。惜しくも、やはりチュラロンコン王の勝ち。
  次は、トルコのハーレム1000人、、、
(あのさあ、その無意味な対戦は、まだ続くの?   @@@ すいません、先へ行きます。)

ダララッサミ バンコク

ダララッサミ

こうして、姫様は28年間バンコクで暮らすことになりますが、宮殿では随分と意地悪をされて嫌な思いをしたようです。
 バンコクの連中は、チェンマイ一族を「ラーオ婦人」などとからかったそうです。ラーオというのはまさにラオスのラオですが、タイの人たちは「タイ北部の田舎者」という意味の蔑称としても使います。
  また、「発酵魚」の臭いがするなどと言われたそうです。
 日本には「なれ寿司」といって、鮒などをご飯と一緒に漬け込んだ発酵食品があります。本来は発酵保存食品なのですが、一歩間違えると「腐った魚」になります。
  その独特の臭いと、口に含んだ瞬間、舌先にピリッと来るその危うさが、好事家たちを虜にするのでしょうか。
  それと全く同じ製法の食べ物が、タイ北部にもあります。日本もこちらも同じ様に時々これが原因の食中毒事件が新聞を賑わしたりします。
  何れにせよ、かなり鼻にきつい食べ物のようですね、食べたことありませんが。
それにしても云うに事欠いて随分と失礼な連中ですね。何処も同じ「大奥マル秘物語」。どろどろとした噂話や、どす黒い陰謀が渦巻いていたのでしょう。

  そんな中でも、姫様は自分の立ち位置を決して見失わず、髪型、服装、生活習慣など、あくまでもチェンマイ(ランナー朝)様式を守り、毅然とした態度で宮殿生活を送っていたようです。
チュラロンコン ダララッサミ
そんな健気さが王様の御めがねに適い、3年後に王女を授かりますが、3才に満たぬうち亡くなってしまいます。それでも王様は彼女に対し特別な計らいをして、「5番目の側室」という高い位を授けて彼女をねぎらいました。

  1910年、チュラロンコン王死去。王妃は次王に辞職を願いでて、1914年に28年ぶりに故郷チェンマイへと戻りました。

ラッサミ亭 チェンマイ

ラッサミ亭
帰郷後に彼女が暮らした住居が、博物館として公開されています。博物館と聞いたからには行かずばなりません。

ラッサミ亭02
入口前に王女の銅像があります。
写真を撮ろうとしたら、お兄さんがお祈りを始めてしまったので邪魔しないように下がって待つことにしました。
  しかし、このピンクのお兄さんお祈りが長いの長くないの。(ともかくタイ人は王室大好きですから)諦めて先に館内に入ることにしました。

  しかし、有料にも拘らず館内撮影禁止。まあ、特にお見せしたい物もありませんでしたが。
彼女は、バンコク滞在中に、音楽、演劇、手芸など色々な事を学び、特に音楽を愛し、古典楽器も弾きました、、、的な展示内容だったと思います。

帰りがけ、階下の無料スペースで貴重な写真を見つけました。

室内楽
バンコク宮殿内での古典楽器の室内アンサンブル。

ダララッサミ王女は自身が勉強するだけでなく、チェンマイから帯同してきた親族や侍女のなかで、才能のある子供たちにも積極的に音楽を習わせ、写真のようなアンサンブルを編成し演奏を楽しんでいたようです。募る望郷の念を音楽で慰めていたのでしょうか。(いや、余計に寂しくなるか。)

  実はこの写真の中に、マクフィーの奥さんの「カンマオさん」が写っていたのです。
(やっと出てきたカンマオかあさん。いや~、長かったな)
写真中央で胡弓のような楽器を持っている向かって右が若かりしカンマオさん。中々の美人さんですね。写真がぼけてて、良く判りませんが。
彼女の出自は詳しく判りませんが、少なくとも王族や選ばれた子供たちと一緒に英才教育を受けていたことは間違いないようです。

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マクフィー夫婦のお墓の前に直角に並んでいるのが、彼等の子供たちです。
長女 バイオレット
病弱に生まれたため、他の兄弟のように海外留学は出来ず、一人だけビルマで療養と学業を兼ねて生活します。15才になって、健康状態も良くなったのでチェンマイに戻って両親と一緒に暮らします。日本軍進駐時、父は収容所へ送られますが母娘はチェンマイで暮らす許可を得ることが出来ました。

3女 ノラ
6才の時、他の2人と海外留学の旅スタート。
脳腫瘍が発見されイギリスで手術を受け無事回復する。
戦時中は英国の叔母さんの家で生活。
結婚後、シンガポールへ。更にクアラルンプールへ。
KLにて死去後、生前の本人の希望で遺灰はチェンマイの両親の元へ。

末子 アンガス
6才の時、他の2人と海外留学の旅スタート。
卒業後ナイジェリアの会社勤め後、第二次大戦中 英陸軍に従軍
戦後30年振りにチェンマイへ帰国

ここでまとめて、マクフィーチルドレンの「海外留学の旅」をざっとご紹介しますと、

  • 1916年 ヨーロッパの予定でしたが第一次世界大中のため香港の小学校へ
  • 1919年 家庭教師と共にイタリアのサンレモへ 
  • 1920年 英国で就学  そして最後はスイスで卒業


あちこち転々として随分語学力もつき、国際感覚も身に着いたでしょう。

と、、、あれ? 1男3女のはずが、一人足りない。

もう一度、両親のお墓を見てみましょう。
マカフィ墓
両親に寄り添うようにして後ろにちっちゃいお墓が3基あります。
真ん中が次女のモリー、両側に先夫のヒュー マキーンと後夫トーマス レイドのお墓があります。

モリー マキーン

次女のモリー、「波乱万丈」と言う言葉はこの人の為に在る様な、壮絶な一生を送ります。

  7才の時に例の「海外留学の旅」に出発しますが、長女のバイオレットは病弱で病院直行の為 次女のモリーがリーダーです。と言っても当時7才でまだ小学校2年生でした。健気にもお姉さん振りを発揮して、妹弟の面倒を見たのでしょうか。

  大学卒業後、25才でチェンマイへ帰国し、プリンスロイヤルカレッジで英語を教え、マコーミック病院で看護助手として働きました。その時、病院の経営部長だったヒュー マキーンと知り合い1933年に二人は結婚します。彼は、ハンセン病療養所を建てたジェームズ マキーン(前出)の息子で、父から療養所を引き継いでいました。療養所内に住居を設け、2人の子供も授かり一時幸せな時間を過ごしました。
マッキーン夫妻

しかしこの後、この家族に過酷な運命が待ち受けていることなど、二人とも知る由がありません。

 1941年、日本軍進駐にあわせ、一家は山を越えビルマへ、更にインドへと逃避行が続きます。
  ここで、ヒューは長期間の過労が祟り病に倒れ帰らぬ人となります。モリーは乳飲み子を抱えてインド各地をさ迷い、何とかアメリカ行きの最後の船に乗ることが出来ました。
  義理の親であるジェームズ マキーンを頼ってアメリカへ渡りました。その後、病院で帰還米兵の看護をしました。
  戦時中の混乱状況からか、米国移民局は彼女の入国を認めず、タイへの帰国を要求してきました。取り敢えず子供たちを義理の姉に預けて、タイへ一旦帰国し、あらためて米国移民局に訴えかけて何とか米国市民権を得ることが出来ました。
  その時に彼女を支えてくれたトーマス レイドと、後に再婚し、ロスアンジェルスで生活します。その後、頻繁にチェンマイに里帰りしますが、ある年のクリスマスに帰郷した折、この地でトーマスは亡くなりました。

  こうしてこのマクフィー一家の歴史を振り返って見ると、生まれついて病弱だった長女のバイオレットが、逆にこの一家の中では一番平穏な人生だったかもしれません。

  何れにせよ、皆それぞれ大変な人生を送ったようですが、最後には皆両親の元に帰って来ました。やはりここが一番落ち着くのでしょう。
  なんとなく、お墓も寄り添っているようで、微笑ましく感じられます。

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