チェンマイ ジムカーナ クラブ
前回の続き。「チェンマイ ジムカーナ クラブ」
設立1898年。クラブハウス前の象徴的な大きな木も、100年前の設立当初からここに木陰を作ってプレーヤー達に憩いの場を提供してきました。
ちなみに日本のゴルフの発祥は、神戸市六甲の「神戸ゴルフ倶楽部」で,設立が1903年だそうです。つまり、我が「チェンマイ ジムカーナ クラブ」は日本でゴルフが始まる4年も前から、クラブ活動が始まっていたということです。言うまでも無く、タイ国内最古のゴルフ場です。
とは言っても実際は、どちらも現地の人がゴルフを始めた訳ではなく、渡って来た英国人がゴルフクラブが振り回したくなって「ウズウズ」しだし、その気持ちを抑えきれずに図々しくも現地にコースをこしらえてしまった、と言うのが本当のところでしょう。
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1898年と言うと、明治31年。日本では日清戦争がおわって、今度はロシアとの関係がキナ臭くなってきた頃。外に目を向けると、列強諸国が植民地獲得にしのぎを削り、所により一触即発状態。こちらタイでも、西からはイギリスがインドを植民地化し更にビルマを併合する。東からはフランスがベトナムを取った後、カンボジア、ラオスを獲得。
さあその間に挟まったタイ国の運命やいかに。
そんな状況下でも、はるばる渡って来た英国ジェントルマン諸氏。異常なまでにアスレチックに執着して、巷で良く言われるように、何処でも植民地に着くと、彼らは先ずシャワー施設とゴルフコースを作ってから、仕事を始めるそうです。その一つが、「六甲」であり「当クラブ」であったということですね。
当クラブは、今時珍しい設立当初からの「会員による自治運営」がなされています。
設立趣旨は、スポーツの振興と会員相互の親睦。クラブ内には、ゴルフのほかテニス、スカッシュ、ビリヤードやマージャン卓のあるゲームルームなどがあります。
そして、何と言っても極めつけはクリケット場。アジアのメジャーリーグ?が時折開催されます。(ルールが判らないので、観戦してても盛り上がれませんが)。
ポロ試合の絵と実際に使われたスティック?
設立初期の頃は、競馬やポロがゴルフコース併用でおこなわれていたようですが、さすがにこれは現在は行われていません。いろいろなスポーツをみんなで楽しむという、いわゆる純粋な意味での「カントリークラブ」ですね。(日本にも、○○カントリー、とか、□□カンツリー倶楽部などの名前のゴルフ場がありますが、ゴルフしか出来ないところは厳密には「カントリークラブ」とは言いません。)
チェンマイジムカーナクラブ
当時のレイアウトスケッチです。中央左の点線四角がポロ競技、外側の楕円が競馬のトラック、そして点線直線が9ホールのゴルフコースです。そういえば、前回ご紹介した陸軍所属のランナーゴルフ場にも、コース内に競馬場があって、幾つか馬のトラックを越えていくホールがありました。トラックはそのまま「巨大なバンカー」となります。
ランナーゴルフ場
「もし貴方が打ったボールがお馬さんに当たったら、罰金を科します。」という注意看板に脅かされなくとも、目の前を馬が通り過ぎただけで、心臓どきどき。案の定ミスショットして、ボールは馬のひずめでガチャガチャになた巨大なバンカーへ。「そのまま打って下さい」とキャディさん言われますが、無理です。わたしは何時もギブアップしてました。
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当クラブの大きな木の下に、100年前のクラブ創設者達の名前が刻まれた碑があります。その方達を、クラブに残されている古い写真とともに簡単にご紹介しましょう。
趣旨に賛同してお金をだしあった人14名。英国人13人、タイ人1名。
内訳は、英国領事、同副領事、森林局のお役人、材木商社社員、そして一名のタイ人はバンコク政府の高等弁務官。
当時、チーク材は耐久性の高さや耐火性,強度,重厚な色調や光沢などの特性から船舶用材,客車の内装用材,建築材,家具など幅広い需要があり、ビルマやタイの重要産物でした。
ピン川
近隣で伐採されたチークが沢山の象によって運ばれて、ここチェンマイのピン川で筏に組まれて下流へ運ばれる、チークの集積地だったそうです。
そのため、イギリス、フランス、デンマークなどの商社が進出していて(ただしシェアーは全体の8割がイギリス系)、当時北タイに50人ほどの英人が森林関係で働いていたそうです。
クラブに残されていた、古い写真を何点かご紹介します。
ドイスーテップへピクニック
1901年、みんなで市西部のステープ山へピクニック。この山中にはワットプラタートという有名なお寺があり、今でも人気の観光スポット。涼しげな滝の前で記念撮影です。ビーグル?もいるよ。
1.ベケットさん、チェンマイ英国領事官 当クラブ設立の言いだしっぺ?
2.ハリス婦人 6の奥さん
3.有名な宣教師マッギルバリー牧師さんの娘
4.アンダーソン婦人
5.ライル氏 英国副領事 体は小さくひ弱そうですが、熱血漢。「シャン族の叛乱」では、単身乗り込み、暴徒を説得したそうです。
6.ハリス牧師さま 北タイ初の小学校を作りました。
ルイス レオノーウェンス
クラブ創設者の一人 ルイス レオノーウェンス、リタ 夫妻
この写真の説明書きに「母親の名前はアンナ。幼少期、タイ王子と親交があった」など、この人の資料を読み進めていくうちに、ことさら母親の名前が紹介されたり、いくら昔とは言え皇室と親交があったなど、違和感があったので詳しく調べてみると、驚愕の事実に行き当たりました。(そんな大層な物ではありませんが)
ミュージカル映画「王様と私」でユルブリンナーと「シャルウィダンス」を踊っていたデボラカー扮する家庭教師が、誰あろう彼のお母さんアンナ レオノーウェンスです。そういうことなら、ユルブリンナーの息子(後のチュラロンコーン大王-ラーマ5世)とアンナ先生の息子(ルイス)が遊び友達だったのも納得ですね。お陰で、彼はタイ皇族近衛隊長にも抜擢されたそうです。
でもこの話はタイではしない方が良いかも。アンナ母さんの自伝が、あまりにも脚色がすぎていて事実と懸離れておりタイ王室に対する「不敬罪」の観点で、「王様と私」はタイ国内では上映禁止だそうです。
W.W.ウッド
1905年 森林管理官 W.W.ウッド氏(創設者の一人)の結婚式。
花嫁さんの後ろにいるのが花嫁のお兄さんの材木屋マクファーレン氏(創設者の一人)。
マクフィ
帽子着席が森林監督官マクフィ氏(創設者の一人)。
1927年 「チェンマイ駅開設式典」に参列されたプラジャディポック王(ラーマ7世)に白い象の子を進呈しました(白い象は古来より高貴なものとして、皇室に進呈される)。
彼は退官後も家族と共にチェンマイに住み、太平洋戦争時、日本軍の捕虜となりバンコクの収容所に収監され、終戦後解放されるも4ヵ月後に死去。
W.A.R.ウッド
プラジャディポック王(ラーマ7世)
ランバイバルニ王妃。
1926年 クラブにて「スポーツフェスティバル」開催。
国王王妃両陛下招待され、ポロご観戦。
中央にW.A.R.ウッド氏 英国総領事。右にプラジャディポック王(ラーマ7世)とランバイバルニ王妃。
それにしてもこの写真、どうにもフレーム割りが気になります。中央のウッドさんがえらく尊大に写ってるし、右のお后様は半分カットアウト。
本来位置的には逆が正解だと思うのですが。たまたまこうなってしまったのか。或いは、当時の外交関係は正にこういう関係だったのだろうか。
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ジムカーナクラブ設立
(以降、私の脳内での妄想)
100年前のある日こと。とある市内のパブでいつもの連中が何時ものように、ビール片手にわいわいやってます。楽しそうなのでちょっと覗いてみましょう。
英国領事ベケットさん 「遠い異国でよ、皆よう頑張ってるけ、クリスマスくらいはみんなで集まって、ゴルフでもすっぺえよ」
(脚注:私事ですが、このタイミングでどう言う訳か「八重の桜」と「あまちゃん」見てます。多少なまりますが、特に意味はありません。どーぞお構いねぐ。)
マクフィ監督さん 「いっつも、領事さんには、おらたつの事いろいろ気い使ってくれて、ありがてーこってす」
材木屋マクファーレン 「ゴルフか、いいねえー。なら、おら家の馬さ乗って行くべ、ポロもすっぺーよ」
マクフィさん 「なら、おらあ会社の象に乗って行くべえ」
材木屋ウッドさん 「いっくらなんでも象はだめだろ。みんなで走り回ったら危なくてしょうがねえべさ」
マクフィ 「あに言ってんだおめー、象だってサッカーくらいやるぞ。そういやこないだ、うちの親象がよ、白子生んだっちゃ。まーぶったまげたなー。早速王様に差し上げるだ。」
(材木商は荷役用に沢山の象を飼育しています。それらも会社の大きな資産となっています。)
ライル副領事 「ゴルフとか競馬とか、面白そうだけんど、いったい何処でやるだ。そんな広い場所あんのか?」
ベケット 「ほら、あのピン川沿いの原っぱはどうだ?」
ライル副 「おお、あそこな。あそこならおら地主さ知ってるけ、明日にでも行って聞いてみっぺー」
ということで、その晩はお開きとなりました。翌日、領事館では
ベケット領事 「おお、ライルさん、例の原っぱの件どうでした?」
ライル副 「ただいま戻りました。あのー、良い知らせと悪い知らせがありますが、領事さんはどっちが好きですか?」
ベケット領事 「どっちって、おめえ、悪い知らせが好きな人なんていねえぞ。そんなアメリカ映画の台詞みてえなこと言ってねーでとっとと話せ。」
ライル副 「地主さんは買って貰いてえって言ってますが、外人が土地を所有するのは中々難しいようで」
ベケット領事 「そうか。まあ、ともかく今晩みんなで相談すっぺえ」
と言うこと、その晩も例のパブに集まります。
ベケット領事 「ということで土地は見つかったんでよ、どうせなら皆で少しっつ銭出し合ってよ、カントリークラブさ作ろうと思うんだけど。ただ、所有権の問題があるんだ。そこでレオノエンさんよ。あんた、王様と知り合いだって言ってたろ。何とか相談してみてもらえんだろか」
材木屋レオさん「おし、そったらことなら明日にでも電報打ってみるべえ。」
翌日、例のパブにて。
高等弁務官(この方は、バンコク政府から送られてきた県知事のような人)
「皆さん喜んでください。正式に「贈与証書」が送られてきました。」
一同「おお、そりゃよがったなあ。早速明日から工事始めるっぺえ」
とまあ、全くの創作ですが、ざっとこの様な流れではなかったかと思います。
目出度し目出度し。
目出度し目出度し。
外人墓地
この時、同時に、贈与された土地の一部を仕切り「外人墓地」を作りました。
材木屋のマクフィさん、娘さんがピクニックしてたマッギルバリー宣教師、総領事のウッドさんなど、この地をこよなく愛し、自身の半生を捧げて医療や教育の改革に捧げた人々。
この墓地に今も静かに眠っています。
ー おわり _
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