マレー半島

_______ 前回の続き

プラチュワップキーリーカン

一時間ほどの列車の旅で、目的の駅に到着しました。
プラチュワップキーリーカン駅
ここは、タイ国内で最も幅の狭い所と言う事だそうです。ちょいとした地震で、ポキッと折れそうな程に細く伸びきったマレー半島の付け根部分。その細いところを更にお隣のミャンマーと分け合っているため、東の海岸線から西のミャンマー国境迄12kmしかないそうです。
  まあしかし、それは地図上の尺の話しであり、わざわざ見物するような物ではありませんが。

タイ国空軍第5航空隊基地

タイ国空軍第5航空隊基地
今回の目的地はこちら。タイ国空軍第5航空隊基地
この基地内に、太平洋戦争の記念碑があるというので見に来ました。

太平洋戦争の記念碑

太平洋戦争記念碑
中央にタイ国旗を掲げた前のめりの兵士の像があります。
最初に目にした時、この兵隊さんサーフボードに乗っているのかと思い、思わずベトナム戦争を題材にしたフランシスコッポラの映画「地獄の黙示録」を思い出してしまいました。
  近づいて確認すると、そんな不埒のことではありませんでした。乗っているのはボードではなく、飛行機を象徴するプロペラでした。大変失礼いたしました。

太平洋戦争記念碑02
解説版はタイ語の文章を英文化し、それをさらに日本語訳したのでしょうか。

「、、、、、戦いを尽くした栄巻??を持ち上げる? ええ?? なに????」

それほど難しい内容ではないと思いますので、なにとぞ好意的に判読してください。

世界共通語といっても過言ではない「英語」で解説してあるのは当然ですが、更に日本語まで表記してある、その日本人に対する心遣いが嬉しいですね。一度も行った事はありませんがこの半島を更に南下すると、有名どころの所謂高級ビーチリゾートがあり、結構お若い方達も、日本から観光で来られていると思います。しかし、近くにあるこの記念碑の存在や、70年前にここで起こった事は、殆どご存じないのではないでしょうか。勿論大いに日本が関係したことです。折角日本語で書かれているのに、殆ど読まれていないのは残念です。

太平洋戦争記念碑レリーフ

太平洋戦争記念碑レリーフ
こちらは幅7,8mもある、大きなレリーフ。
太平洋戦争記念碑03

太平洋戦争記念碑04
解説版の通り、表側には上陸してきた日本軍(向かって左)と、それを迎え撃つタイ軍、その後ろに逃げ惑う市民、心配そうに子供を庇う女性などが描かれています。

太平洋戦争記念碑レリーフ02
裏に廻ると、停戦のシーンとなります。

太平洋戦争記念碑06
こちらがその停戦式が行われた場所です。

太平洋戦争記念碑レリーフ07
若干意訳が必要かと思われます。
「12月8日から始まった戦闘は、激戦33時間後ののち、12月9日に停戦となった。」ということでしょうか。

日本文のある解説版、英文中にも日本文にも「侵略」を意味する表現は使われていません。憶測に過ぎませんが、製作者側の将来も見据えた日本への配慮ではないかと思います。

太平洋戦争記念碑レリーフ09
こちらは、美しい海を背景にしたモニュメントですが、残念ながらタイ語しかありません。
戦没者の銘板が並んでいるのでしょうか。

  さて、解説版にそれぞれ出てきた、日付 仏暦84年12月8日とあります。
タイでは現在でも西暦ではなく、仏暦が広範囲に使われています。仏暦とはお釈迦様の亡くなった日(入滅)から数えた年で、543を引くと西暦になります。因みに今年は 仏暦2558年。運転免許証や車検証のような公文書も仏暦で書かれているので、なれない外人は期限を間違えたりするので要注意です。

   問題の「仏暦84年12月8日」と言うのは、仏暦2484年 つまり西暦1941年12月8日 「太平洋戦争 開戦の日」ということですね。

  一般に太平洋戦争開戦というと、ハワイ真珠湾攻撃が余りにも有名で映画になったりしていますが、実際にはハワイだけでなくアジア太平洋各地で12月8日に日本軍の侵攻が始まりました。

太平洋戦争開戦時侵攻地点

ざっと並べてみると、香港、フィリピン、グアム島、ウエーク島で空爆開始。
そして、カンボディア・タイ国境、タイ各地マレー半島、英領マレー北端などに上陸侵攻開始。
  
  これら各地の攻撃は、バラバラでは敵側に知れ警戒されることになりますので、作戦上はあくまでも同時進行。12月8日、日付が変わると同時に一斉に開始すると言う計画です。しかし、当時の無線技術からして緻密な相互連絡は出来ず、ぴったり同時とはいかずに若干の時間のずれが生じました。
  4年の長きに渡った戦争を時間単位で考察するのは無意味かもしれませんが、この開戦の日に限って言うと、真珠湾攻撃開始よりも2時間先んじてマレー半島の上陸進攻が始まっていたそうです。
日本軍上陸地点
12月8日の日本軍タイ侵攻地点です。
  一番上の矢印は、仏領南ベトナムに進駐した日本軍がカンボディアを通りバンコクを目指します。2番目はバンコクの南に上陸。
三番目が今回訪れた「プラチュワップキーリカン」、その下は「チュンポン」。一番下(南)が、英領マレーの北端の「コタバル」です。
半島各地に上陸した日本軍は、片や英領マレー更にシンガポールへと進撃。片や北上してビルマの戦いへと続いていきます。

日本軍上陸地点海岸
町の北側に小高い岩山があり、頂上にお寺があって、下から360段の階段がしつらえてあります。
   上り始めて、3分の2ほど上がった辺りで、とうとう息が切れ鼓動が激しく階段を上がろうにも足が上がらなくなってしまいました。普段の不摂生を反省しつつ休憩していると、後から上ってきたおじさんに「頑張って上まで上らないとご利益が無いよ」と励まされますが、まあ歳も歳だし、ご利益は3分の2でいいやと実にだらしない参詣を決めこみ風景写真を映して下山します(ので、お寺の写真はありません)。
   正面の岩山の右裾に開けているところが、先ほど見学した「空軍基地」のある所です。
 
  70年前の12月8日にこの海域から「アジア太平洋戦争」が始まったと言うことですね。

  しかし、この日はまたことのほか上天気で海も穏やか。多分あの辺に日本軍が上陸して、それを迎え撃つタイ軍はこの辺でこう対峙して、などとイメージを掻き立てようとするのですが、無理です。どうしてもノンビリとした気分に浸ってしまいます。
   しかし、70年前に日本軍がこの浜に上陸し、以降各国を巻き込みながら、嘗て人類が経験したことの無い大規模な戦争に発展したという事実は、心に刻む必要があると思います。


「あれ、一寸待って。当時タイと日本は同盟関係で、タイ領内は通過しただけじゃなかったの?」

  インターネット上に「ウィキペディア」という検索サイトがあり、割と客観的に詳しい記事が書かれているので、手軽な百科事典としていつも利用させて頂いてます。
そのウィキの「マレー作戦」というの項目の記載によると「タイ軍との間で一部で小競り合いも起きた」と、サラッと書かれ、何となくスムーズに事が運んだようにイメージしてしまいます。実際はどうだったのか。上陸地点各地で戦闘が起こり、双方に戦死者が出ました。その数が資料によってまちまちで正確な数がつかめませんが、おそらく、双方合わせて500名を下ることは無いと思います。この戦死者500名と言う数字は、単なる「手違い」や「連絡ミス」では済まされない、「一部で小競り合い」と言う表現はそぐわない気がします。

当時の経緯を見てみましょう。

日本は12月8日を X-Day と決定しました。しかし詳しい日時と場所は、当時の軍の最高機密であるので、タイとの協議もギリギリまでやりません。

12月7日 決行前夜 日タイで協議予定。しかし当時のタイ国ピブーン首相は不在のため協議不能。

12月8日 日本軍、しかたなく許可なしで上陸。タイ側防衛隊と戦闘となる。

      出勤してきたピブーンと協議して、取り敢えず通行許可のみ得る。
      各地に「戦闘停止」の通達がなされ戦闘停止する。

ピブーンさん、こんな大事な時に何処行ってたの?彼の前後の行動を見ると、どうやら意識的に「とんずら」を決め込んでいたようです。これを、専門家は外交上の「雲隠れ作戦」と表しています。
  つまり、安易に通行を許可すると、タイは日本側に付いたのか、と見られてしまう。そうかといって、徹底抗戦するほどの軍事力は無い。そこで、許可は出すけどあくまで「仕方なく」というイヤイヤ感を常に内外にアピールします。

12月21日 日本側の要請に従い「しかたなく」同盟を結ぶ

更に翌年イギリス軍のバンコク空爆を受け、空爆を非難する声明を出した後、「仕方なく」英米に宣戦布告しますが、この時も後の首相のプリーディが「雲隠れ」し、宣戦布告の署名を回避します。このことが後に奏功し、タイは終戦時に敗戦国の扱いを免れます。
「タイの世渡り上手」と言われる所以ですね。

さて、今回訪れた場所から更に南に下ったところに「チュンポン」という所が在ります。ここにも、日本軍が上陸し地元守備隊と戦闘となりました。そのことが題材になった映画があります。

次回はその映画をご紹介します。

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